「しあわせな日々」

撮影:児島功一郎
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今日はどうぞ、よろしくお願いします。O land Theaterの苧環凉さんにお話を伺います。最近、苧環さんはどんな感じでしょうか。
苧環 
先月の公演が終わって、次の公演までの準備期間ですね。
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前回の「しあわせな日々」(サミュエル・ベケット原作)でしたね。大変面白かったです。ご自身ではどんな公演になったと思われますか?
苧環 
ここ一年ぐらいのテーマが、見えるものと見えないものを同時に成り立たせるという事でした。今回のベケット作品の上演に関しては、人間ドラマにはせずにドラマの背後にあるものを立ち上げたかったんです。それが少し、掴めたのかなと思っています。うまくいったかどうかというのは精度の問題があるから、自分では厳しい目線で見てしまうんですけど。
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見えるものと見えないものを同時に成立させる。まず、「見えるもの」とは。
苧環 
人間の体や舞台美術ですね。対して「見えないもの」とは、心や思考があげられますが、ベケットの場合はそれらを存在させている、背後にある何かをそう呼んでいます。
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心や思想を存在させているもの。
苧環 
「名付けえぬもの」(注:ベケットの小説)ですが、私は思考などよりもそちらの方が重要なんじゃないかと考えています。例えば、戯曲には「間」という指示が大小含め600箇所以上書かれているんです。間、って見えないですよね。喋ることと同じぐらい間というものが指示されている。人間ドラマだけにスポットを当ててしまうと、間は存在できなくなってしまうのではないかと私は思っています。
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まず前提として、私は情報そのものに興味があります。結論から言うと、情報として成立するのは人間が自ら洞察した意見のみであると考えています。そこで実は、このあいだ拝見した芝居が、ちょっと観客にその力を期待しすぎていて、途中で20分くらい寝ていたんですよ。眠くなったという事は、私の生活にとっては関係ないものだと、洞察するまえに分かってしまったという事なんじゃないか。ちなみに、眠るということはつまらないか面白いかの重要な判断基準で、結構大事にしています。
苧環 
寝ちゃうと面白くないということですか。
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そういうことになりますが、でも面白くないというのは別にネガティブな意味ではないです。その芝居の場合、抽象的な情報をうまく作り出すことができなかったんじゃないかなと思っているんですよ。抽象的な情報は劇場の中では最も強度のあるオブジェクトだから、そこを共有できたら、少なくとも寝なかったと思う。構成の問題かもしれない。人間ドラマは抽象的な最たるものだと思うんですが、苧環さんは人間などを見せたくなかったということですか?
苧環 
見せたくないと言うか、それを見せることだけが劇をつくる目的ではないんです。戯曲では日常的なものはむしろたくさん使ってたんですよ。腰から上しか出ていない人が、日常的な行為をこれでもかというくらいアクションとして使っていたんです。さらに、その日常を支えているサムシング(名付けえぬもの)はドラマと関係がないわけではないんです。けれども、日常はぶった切られるんですよね。すぐに、頻繁に。
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そして、そこには間がある。
苧環 
日常が続いていることと、頻繁に断絶を起こすことの両方を見せるのが、人間の姿としては真なるものに近いんじゃないかなと思っています。人間は理路整然として常に生きているわけではない。日常的営為と断裂に交互にさらされることにこそ。
1O land Theater
日常に潜む見えない意識や感情を取り上げ、「人間とは何か」「人間が生きるとはどういうことか」を演劇を通して探求する。2017年より古典戯曲の上演を主軸に活動している。主宰・苧環凉。代表作に『王女メデイア』『イナンナ』、 2017年FFAC創作コンペティションvol.6『春独丸』、利賀演劇人コンクール2017『サロメ』など(公式サイトより)
2KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭2018 フリンジ「オープンエントリー作品」 サミュエル・ベケット作『しあわせな日々』 安堂信也 / 高橋康也 訳
演出・美術 苧環凉
出演 坂東恭子 竹ち代毬也
照明プラン 池辺 茜
照明操作 岩元 さやか
音響  林 実菜
宣伝美術 瀧口 翔
写真記録 児嶋 功一郎
映像記録 奥田 ケン
舞台監督 乃村 健一(n.o.m.)
制作 宮崎 淳子
公演時期:2018 10/19(金) 19:00 10/20(土) 15:00 10/20(土) 19:00 10/21(日) 14:00
会場:京都東山青少年活動センター 創造活動室

断裂

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人間は理路整然とは生きていない。しかし、基本的にはそれを目指すものではないか。数学では、紀元前の理論をそのまま使うんですよ。なぜなら証明されているから。
苧環 
私も数学は好きなんですが、円周率などの無理数は文字通り「分からないもの」ですよね。人間の考えた枠に収まりきらない、次に出てくる数は分からない、さらに理屈では果ての方まで行くんですが、誰もそこまで行こうとはしないし。
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そうですね。人間は自分の意識をマッピングしようとする。だが結局失敗する。その中をむりくり進んで行こうとするだけだ。
苧環 
「しあわせな日々」はそれが描かれていましたね。
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「しあわせな日々」は、彼女がぼーっと生きてるようには全く思えなかったんです。緊張感に晒されながらも、うまく付き合ってるようにも見えました。自らの混沌に対しても。とても好感の持てる態度でした。
苧環 
でもやっぱり、しきれないんですよね。理屈では可能であっても、肉体でやろうとしても絶対に限界が生じる。秩序立てて生きようとしなくても生きられるという現実があるんですよね。そこに私は、こういう言葉を使うのは語弊があると思うんですが、人間の神秘を感じています。何かによって生かされているという感覚。その「何か」によって行いさせてもらっていると考えたとき、視点が変わる瞬間があるんです。あの劇はそこを狙って書かれていると思う。
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生かされている。
苧環 
そういう感覚をお客さんが拾っていってくれればいいなと思っていました。もちろん人によって、切り替わっていくタイミングはまちまちだと思いますが。寝ました?
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私は一秒も寝なかったです。懐中電灯で一歩一歩を照らしながら進んでいく彼女にものすごく共感していたから、むしろとてもスリリングでした。

断裂と断裂

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最近、苧環さんはどんなことを考えていますか?
苧環 
自分が何で演劇をしているかというと、見えるものと見えないものの関係に切り込んで行きたいなと思っていて。社会とか人間とかのためではなく、純粋な個人の興味として。それが成立する形は何だろうと、ずっと思っています。ただ、やり方についてはどこか的を絞らないと、それこそ「しあわせな日々」のウィニーのように散逸していくので。どんな演劇をしているのか、というのが明確にわかるような形にしたいなと思っています。今までやってきたことを整理しつつ、シュミレーションしている段階です。
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見えないものがなぜ成り立つのか。
苧環 
私はお能の稽古もしてるんですけど、能の上演って基本的なパターンは大体決まってるんですよ。ワキが舞台で言えば上手の位置に付いて、シテが幽霊だったり神だったり、時々人間だったりなんですが、彼らと交流する。ちょっと語弊があるかもしれないですけど、お能は演者の型だけ見ていてもちっとも面白くなくて、演者が作っている空気の方に意識を移すと俄然面白くなるんですよ。こんな話があるんですが、地上波で能の上演でずっと真ん中に座っている役者が映っていて、景色が変わらないから他のチャンネルをつけて、30分後にもう1回見てみたら、まだ同じ位置で座っていたと。
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はい。
苧環 
形を見ていても面白くないんですね、でも演者が発している空気に注目するとものすごく芳醇なものが充満している。そこに視点がシフトする瞬間が、一つの理想ではあります。自分が目指す舞台の完成形だと考えています。
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ちょっと、すごく脱線するんですけど、私はそのお能のエピソードについて話したいことがあります。
苧環 
はい。
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だが、それを話すことによって苧環さんの思考を変容させるのではないかと危惧している。もちろんそれは貴重なコミュニケーションの一つには違いにないけれども、果たしてそうした「情報の受け手を信用して発信する」行いが一方的な強要とどう違うのか迷っているんですよ。いや、変なところで拘っているように見えるかもしれないんですが。幽玄を語るのに言葉を使っていいのか?
苧環 
それを強要として取るのかどうかはわからないですけど、でも舞台って消えものですからね。ずっと続くわけじゃなくてある限定された中で行われることなので。スポーツ観戦で試合に熱中している時はそこに包まれているんですよね。それが日常を支配し出すと危険なんですけど、舞台はあくまでフィクション。遊びのエンターテイメントだよ、と。
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受け取り手の自由ということですね。
苧環 
そうですね、絶対に日常に帰ってくるので。

物語の演劇ではなくて

撮影:児島功一郎
苧環 
ちょっと別の切り口ですけど、物語というものがありますよね。物語は人を熱狂させ、ドラマに寄り掛からせる。最近私はそれを疑い始めていて、要は集団的合意ですよね、何歳になったら結婚して、いい会社に入って、年齢とともに給料が上がってみたいな。でも、いまそういう物語はそれほど信じられなくなっている時期に来ているんじゃないかと思っています。自分が子供の頃に比べると無効化されている。ドラマに同調していればうまくいった時代はすでに終わっていて、今は何でもあり。そして、なんでもありだと言いながら何をしたらいいのか先が見えない時期に来ている気がします。
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なるほど。
苧環 
だから、ドラマそのものに頼る演劇というのは、有効性を失ってきてるじゃないかと思っています。
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ドラマが個人にとって有効力を失った世界。
苧環 
自分を守っていた物語が消えたら、むき出しの個人が現れるんですよ。色付けされていない自分。そこで一体どういう演劇が立ち上がるかと言うと、物語の演劇ではなくて存在と現象の演劇が立ち上がってくるんじゃないかなと思っています。
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むき出しの個人で創る演劇。人間とは何か、ではなく、自分とは何か、を問う演劇。
苧環 
ああ、そうですね。人間という抽象的なものではなく、私とは何か。

質問 ヒラタユミさんから 苧環 凉さんへ

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前回インタビューさせていただいた、ナマモノなのでお早めにお召し上がりください。のヒラタユミさんから質問をいただいてきています。「これから一生これしか食べられないとしたら何にしますか?」
苧環 
えー。何でしょうね。究極的には食べないで生きていきたいんですよね。それは無しですよね。
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別にそれでもいいですよ。青酸カリで自由になる、でもいいと思います。
苧環 
惑いたくないんですよね。じゃあ、卵にします。

色々なものが対等に

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私は「しあわせな日々」を、ちょっとミステリー的な感じで観ていました。旦那のウィリーが生きてるかどうか推理する、みたいな。そこで伺いたいんですが、苧環さんは見せるための演出についてどう考えていますか?
苧環 
基本的には、一面的な価値観で支配するのではなく、複数のものを見たい人が見れるような角度で見れるようにしたいと思っています。
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一つの価値観に焦点を当てすぎず、複数の価値を存立させると。
苧環 
そうすると漠然とした作品が出来てしまう、というのがありがちですが、多面からの観点に耐えるものにするには個人の肉体的な説得力だったり、そこに個人が立つ実感ですよね。演出は、そこにある種の支配力を与えずに、個々の色々なものが対等に見えるようなバランス感覚を図る。そういうことはいつも大切にしています。この間の「しあわせな日々」にしてもウィニーにだけスポットライトが当たりがちなんですよね。でもやっぱり二人が対等に同じ強度で見えないと、目に見えないものが立ち上がらないんじゃないかというのがあったので。今回、ウィリーにも違う照明があたるようにしてもらっていたんです。
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バランスを取る、と。
苧環 
なぜかと言うと、バランスを取るその行為の間に、見えないものが現れてくるんです。何か、俳優術でも役柄演技でも、そうしたものに裏付けられた演技はとても安心して見ていられるし、それが力量のある役者さんだったらとっても入り込めちゃうんですけど、そうなった瞬間に固定されちゃうんですよね。人間だけになってしまう。そうじゃなくて色々なものが対等に、セリフのない人も、しゃべり続けている人もいつつ、その間に見えないものが存在できるようになる。
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どこかひとつに肩入れすぎさせないということですか。
苧環 
そうですね、全体でバランスをとるということです。
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物語の破壊と近いということですかね?
苧環 
物語はあるけれども、それを要素の一つにしてしまう。物語に支配力を持たせず、劇の要素の一つとして見せたい。
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お客さんごとに色々な鑑賞の姿勢があると思いますが、劇構造を積み重ねていく人が大半だと思います。そうした方にとっては瞬時にゼロベースの評価を求めるのは、面白いかもしれないですけど、困ってしまうかもしれませんね。
苧環 
そうなると寝てしまわれるんでしょうね。良し悪しではなく、その人にはその作品が必要なかったというだけで。
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演出家としては、間を現実化できるかどうか。
苧環 
そうですね。
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そしてその間は価値があるかどうか・・・となると、価値という概念はここでは空疎であることに気付く。
苧環 
私は、無価値が価値なんじゃないかなと思うんですよね。役に立たないものの方がいいんじゃないでしょうか。道具は役に立つけど、人間も全て役に立つものでなければならないんでしょうか。有用なものに価値が置かれすぎてるのではないか。ぼーっとしてたらダメなんですよ、何か目的をもって生きていけないと、説明できないといけない、そうすると無用なものを軽視しすぎるのではないか。普通という物語を中心とした結果、人間が疲弊してるんじゃないかなと思うんですよね。
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有用と無用。それぞれへの視線が均等に割り振らればいいですね。
苧環 
特に今は、個人の能力への有用性が問われすぎていて。ニートとかはそれの裏返しだと思うんです。役に立ちたくないという。バランスが偏向しすぎている。生きたいという欲求と死にたいという欲求のバランスを整えて、気持ち良く生きられるように。という希望はあります。振り子を楽な位置に持って行きたい。舞台でぐらい、それは見たいです。

も・の・が・た・り

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漫画ゴラクと言う週刊漫画誌に「ドカせん」という漫画が連載されてるんですよ。ある工業高校に、どんな難現場でも成功に導くという伝説の土方・京橋建策がやってきて、職人や生徒の間で諍いが起きるとかっこ良く料理を始めるんです。生徒達は彼の手際を見て、勝手に「熱したラードで具材を炒める・・・は コンクリート流し込み!」とか叫ぶ。料理法と建築技術が、ギャラリーの中で明確なイメージとして共有されるんですよね。一話一話の最後で、その料理(チャーハンやオムライス)を食べながら「ド・ド・ド・ド・ド・ドカうまー!」って叫んで、職人(ドカ)への決意を新たにするんですよ。先人たちの歩みに思いを馳せながら。何が言いたいのかと言うと、専門性の高い世界の根本に物語を持っている人々にとっては物語が全てなんじゃないか。いや、一般職の人々にとってはなおさら、物語への希求心は強いんじゃないか。
苧環 
私自身、ちょっととっちらかった話になっちゃうかもしれないですけど、物語が悪だとは思っていなくて。ならなぜ物語を信用しすぎない演劇を作ってるかと言うと、自分の生きてる世界があまりにも物語を強制してくるものだったからです。そこから抜けたいがために視線を移したかったんです。ドカせんの生徒達じゃないけど、私自身物語を読んできて、自分の内面世界を豊かに広げてくれて、夢の世界としてはファンタジーとしてすごく広がったので。それこそ漫画も沢山読みましたし。それがないと人間って、想像力がなくなっちゃうと思うんですよね。料理と土方が組み合わさるというのはまさに想像力。オムライスを作る過程に建築を見出すのもそうだと思うんです。ただ、その中に入り込んじゃうと危険だと私は思っていて、それは人間を害することがあるんじゃないか。
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今は、各国のドカコック達を料理対決させる「ドカリンピック」がドカ国家によって開催される事になって。ドカリンピックで勝った国が、国内公共事業の受注を一手に引き受けるそうです。
苧環 
ベケットの戯曲もそうなんですけど、信じるということと、信じる自分を客観的に見る自分を両立させないと、真実にはならないんですよね。突き放して外側から見てるだけでは世界に対する力は持ちえない。判断は出来る。危険だなと思った時に、そこから離れることが出来、同時に危険の渦の中にも自分を位置させる。役者は、いくら冷静さを保っていたとしても、自分の心の一部を役に預けてはいると思うんですよね。物を扱うように演じていても、人の心は打てないんですよ。そして、冷静な自分も持たないと、危ない。物語が駄目なんじゃなくて、物語も要素の一部に過ぎない。

俳優と演出

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今後どんな感じで。
苧環 
来年の3月に出演する予定なんですよ。セリフのある役がかなり久しぶりなので、自分自身体を鍛え直さないといけないというのがあるんですけど。さっき話しましたが、見えるものと見えないもののために、身体術を、昔e-danceにいた時に飯田茂実さんに習ったやり方を思い出して、トレーニングメニューを俳優たちと共有して。久々に役者に戻って、俳優と演出の両方で行ければなと思っています。

クッションカバー

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今日はですね、 お話を伺えたお礼にプレゼントを持って参りました。どうぞ。
苧環 
ありがとうございます(開ける)クッションカバー。黄色、好きなんですよ。ちょうど、家にあるクッションで使えると思います。冬にぴったりです。大事に使います。
(インタビュー終了)