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そうした作品をお客さんに見てもらって、どう感じてもらいたいですか?
大石 
いかにお客さんに、身構えずストレートに戯曲を楽しんで頂けるか、というところです。お客さんの反応によると、期待以上に深く受け止めてくれる事もあれば、予想も付かない受け止め方をされる事もあって。でも、一緒にこの物語を楽しんでもらえればと思うんですよね。僕がいつも役者に言っているのは、第四の壁を境に舞台側に物語の水が溜まっていって、ある瞬間を境に客席側にそれが溢れて言って欲しいんですね。お客さんに物語を体感してほしい。「ロング・クリスマス・ディナー」は時代がハイペースで流れるんですけど、USJのバックトゥザフューチャーライドのように、客席が時代の激流を下る乗り物のようになってほしかったんですね。
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なるほど。昨日、ミジンコターボの解散公演を見たんですよ。
大石 
はい。
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大阪の芝居の最たるものだと言ってもいいんだと思うんですよ。彼らは兵庫ですけど。大石さんの仰る、水が流れ出してくるというのが最初の10分で実現していたような気がするんです。それはもちろん彼らの作品が良かったというのが前提なんですけど、もしかしたら客席が大阪の観客で、既に水を共有しているんじゃないかと思うんですね。
大石 
なるほど。僕らも、今回は一緒に盛り上がれたんじゃないかと思うんです。次も頑張りたいですね。

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踊る影たち

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構成として、最初はアップテンポなダンスがあって、そこからだんだんと静かなシーンが増えてきて、ソロダンスのシークエンスになっていって、という流れでしたね。「家庭」というテーマを与えられた作品だったからか、家庭内孤立を強くイメージしました。家庭内だけどだんだんと離れていく。しかし、赤ちゃんの誕生で後半にはまとまっていく。
北尾 
大まかにいうと、その前中後編の構成が「1.2.3」のイメージなんです。前半ではキャラクタライズがあり、集団性を描いて、HIPHOPのシーンで情報量と運動性の強いダンスを見ていただき、そこからソロのダンスに移行していく。孤立している人が見えてくる。この流れをイメージして作り始めました。
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そう、集団で集まっているところから、だんだんと一人離れていく。
北尾 
一年に一度、大阪の実家に親戚一同で集うのが僕にとっての団らんなんです。この作品のタイトルを考えていた時期、祖父が亡くなって家を取り壊したんです。集まれる場所が無くなったということに喪失感を感じました。あの家が僕ら親戚をつなぎ止めていた場所だったんです。それを抽象的に表現したかったんですね。
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私個人の親戚たちも実は結構ドライな人々なんです。なのに、作品を通してある寂しさが生まれましたよ。
北尾 
当初は家族が離散する、みたいなイメージで作っていましたが、それではさすがに寂しすぎるなと思いまして。3ステップ目では全員集うという構成になりました。ですが最後には、赤ちゃんの代わりとして扱っていたシャツを「シャツなんですけどね!」と暴きました。彼らが家族みたいな事をしていたと、全て嘘だと、1ステップ目のキャラクタライズも含めてメタフィクションだったとバラして。そこから、全員がもつれあいながら同じ振りを踊るラスト。現代社会において家庭から出た人々の混迷を見せられればいいなと思っていました。動かされているのか、もつれているのか分からない、家庭の外に出た人々ですね。
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それは、都市部にいる大体の若者がそれに当てはまる筈です。だから、あれは僕らそのもののダンスだったんじゃないかなと思います。

タグ: 人生の節目 メタフィクション その題材を通して描きたい 第四の壁 外傷・内傷


誰何

北尾 
今回の作品は、舞台上に立つことにまっすぐになりすぎてしまうと、見せる者としてちょっとダサいかなあと思う部分があって。ダンサーとしては誠実に身体を投げ出すというのが大前提なんですけど、何かの役として真剣になりきっているのではなくて。だからあまりガチガチに役柄を固めず、家族内での役割が変わっていくような演出にしました。
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例えば「お母さん」「お兄さん」という強い、具体的な代名詞をダンサーに投げかけた時に、不自由さと同時にイメージの広がりと同時に不自由さも得られる訳ですけど、その辺りは上演を通していかがでしたか?
北尾 
東京公演を経て京都公演では、キャラクタライズ・集団性(有象無象)というものを強めた感じで改訂しました。踊る時には、その必然性を言い訳だと思っているんです。踊るというのはすごく非日常的な行為だと思っています。路上で、ダンスが始まる事はないと思っています。そことの距離を何か考えたいと思って、言葉を扱ったりしているんですね。お客さんとの壁を取り払う、一つのてがかりとして。すごく難しいんですけど。そこで、家族という身近なテーマをストレートに扱いました。作用としてはうまくいったんじゃないかなと思っています。仰って頂いたように、家族の事を想起していってもらったらと。

タグ: 演技の型の重要性 役をつかむ 演技それ自体への懐疑 非日常の演出 第四の壁


野蛮な劇場

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地点「コリオレイナス」。改めて、見所を教えて下さい。
石田 
このコリオレイナスという戯曲は日本じゃ全然人気ないんですけど、面白く仕上がっていると思います。若い人はシェイクスピアに触れた方がいい。演劇に興味がある人は特に。
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というと。
石田 
演劇史に歴然とあるもので、ずっとついて回るものだからです。俳優の仕事って、他者が残した文字言語を自分の身体を通して音声言語化する事だと思う。でも、シェイクスピアが書いたセリフは簡単には言えないんですよ。だから、喋れるように戦わなきゃいけないんです。
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形式化してはいけないという事ですか?
石田 
いや、ちょっと違います。たとえば古典の戯曲を自分の日常生活に置き換えれば喋れるじゃないかという意見もある。でも、それが書かれた当時の言語で喋れなければ、自分の仕事が出来た事には決してならないと思うんです。僕は圧倒的に、他者の言語で書かれた戯曲に惹かれました。これはどうやったら喋れるのかと。それは俳優である自分にとってとても大きいテーマです。
__ 
シェイクスピア戯曲と戦っている石田さんがいるという事ですね。
石田 
今回、アルティ ではグローブ座と同じく3階席まで作って上演します。グローブ座が面白いのは、明らかに1階のヤード席が舞台と同じレベルで扱われていた事なんです。1階の観客の目線は舞台の高さと同じぐらいになるんですが、2階から見ると、ヤード席の無数の頭と舞台が同じ高さに見えるんです。まるで、舞台の延長のように。
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それはとても面白いですね。
石田 
で、これまたセリフの話なんですけど・・・学生の頃シェイクスピアを読んでいてこんな長い独白をどうやって喋ればいいのか分からなかったんです。2、3行で済むようなセリフを、例えをいくつも使って2、3ページ使って説明してるし。じきに根本的な事に気がついたんです。これは観客に向かって喋ればいいんですよ。何で先生はそれを教えてくれないんだろうと思いましたね。プロセミアム形式の劇場が成立したときから「第四の壁」が出来た事にされていて、何故かその壁の向こうからは見られていない事が前提になってたからなんですけど、グローブ座にはそんなもの無いわけですよ。言ってしまえば野蛮な劇場です。
石田 
2階の観客はヤード席と舞台とのやりとりを演劇の一部として鑑賞し、ヤード席の観客もそれを分かっているから、俳優とのやりとりに楽しみを見いだしたりする。それはやってても楽しい部分ですね。しかも、Globe to Globeではシェイクスピア劇をオリジナルに近い環境で上演するというテーマの企画でした。シェイクスピアの戯曲にはそうした側面があると僕は思いますし、他でもないグローブ座で確認出来たのは貴重な体験でした。今回はヤード席も設定するので、見に来た人にその一端を感じてもらえればなと思います。

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